熊本地方裁判所玉名支部 平成元年(ワ)51号 判決 1992年2月14日
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
理由
一 請求原因1の本件保険契約が締結されていたことは、当事者間に争いがない。
また、《証拠略》によれば、昭和六三年九月一三日原告の夫である四郎と原告や四郎の知人である林田は、同道のうえ被告会社熊本支社を訪れて、本件保険契約の保険証券、右保険証券に押印されている原告の印鑑、右印鑑を押捺してある原告名義の委任状及び国民健康保険退職被保険者証を呈示して本件保険契約の解約手続を申し出たので、被告会社の職員後藤は所定の解約手続を行つて解約返戻金等一七五万八三〇六円を支払つた事実が認められる。
二 被告は、前項の本件保険契約の解約手続については、原告は四郎にその代理権を与えている旨主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。
かえつて、《証拠略》を総合すれば、林田は金に困つて原告らから金員を騙し取ろうと考え、昭和六三年九月一三日頃、四郎に対して生命保険の配当金の受領方を勧めたこと、そこで、四郎は配当金がもらえるならばと思つて、かねがね原告が本件の保険証券やその印鑑を二階のたんすの中に保管しているのを知つていたので、原告には全く無断でこれらを取り出して林田に渡したこと、そこで、林田は右印鑑を使用して四郎にも無断で解約用の原告名義の委任状を作成したこと、そして、右委任状によつて前項記載のような本件保険契約の解約手続が進められたこと、従つて、原告は右解約後も暫くは解約の手続を知らなかつたことなどの事実が認められる。
右事実によりすれば、原告は本件保険の解約について、四郎や林田に代理権を与えていなかつたことは明らかである。
よつて、被告の抗弁1、2はいずれも理由がない。
三 民法四七八条の適用ないし類推適用について
1 被告は、本件保険契約の解約が四郎の無権代理行為によつてなされたとしても、民法四七八条の適用又は類推適用によつて原告に対しても効力を有する旨主張するので検討するに、《証拠略》によれば、生命保険契約においては、保険契約者からの解約は自由であつて、その場合は保険者たる被告は解約に応ずる義務があること、解約返戻金等解約により保険者が支払うべき金額については、解約の時点によつて異なるが、その算出方法は約款によつて定型的に定まつていること、従つて、契約締結段階で既に解約時に支払うべき弁済の内容は確定していることなどよりすれば、このような解約返戻金等の払戻は、民法四七八条にいう弁済に該当し、同条の適用を受けるものと解するのが相当である。(最判昭和四一年一〇月四日民集二〇巻八号一五六五頁参照)
2 また、債権者の代理人として債権を行使する者も、民法四七八条にいう「債権の準占有者」に当たると解すべきであるから、本件においては、原告の代理人として本件保険契約の解約をした四郎が「債権の準占有者」に当たるかどうかを検討すべきである。
そして、四郎が原告の夫であることは当事者間に争いがなく、四郎は本件保険契約解約の際は、前記一認定のとおり本件の保険証券、右保険証券に押印されている印鑑、右印鑑を押捺してある原告名義の委任状及び四郎本人を確認するための国民健康保険退職被保険者証を呈示したので、四郎が原告の代理人と信じさせるような外観を備えていたというべきであるから、四郎は債権の準占有者に当たると解するのが相当である。
3 ところで、民法四七八条によつて弁済者が保護されるためには、相手方が真実の権利者でないことについて善意かつ無過失であることを要するところ、《証拠略》によれば、本件保険契約の解約を担当した被告会社の職員後藤は、四郎が原告を代理する権限を有しないことを知らなかつたものと認めることができ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
4 そこで、被告の過失の有無について検討するに、《証拠略》によれば、被告会社の後藤は、社内規則である事務処理要領に従い、四郎に本件の保険証券、右保険証券に押印されている原告の印鑑、右印鑑を押捺してある原告名義の委任状及び四郎の身分確認のため国民健康保険退職被保険者証を提出させ、かつ、来社票及び解約請求書を記載してもらつて解約手続を進めたことが認められる。
5 原告は、被告会社の職員は本件解約について原告本人の意思確認を一切していない旨主張する。確かに、後藤は原告の委任状の提出を求めただけで、原告本人に対して委任の事実を確認していないことは明らかであるが、《証拠略》によれば、平成二年度における被告会社の解約件数は約一五万件に近く、従つて相当大量の画一的な事務処理の必要性が認められる。また、本件の場合保険契約の解約とその返戻金の受領であつて、金融機関における預金の引き出しの場合と類似していること、四郎は原告の夫であり、かつ、本件保険の受取人の一人であること、本件保険証券の盗難届等は提出されていなかつたこと等を考慮すれば、他に特段の事情のない限り、前記のような書類の審査等を遵守すれば、委任者本人に対する意思確認の必要まではないものと解するのが相当である。
6 なお、《証拠略》によれば、その文字からしても林田自身が記載したものと認められ、かつ、「借用」が「解約用」に訂正されているが、その訂正も一応適法な形式によつてなされており、代理人が委任者の夫で、現実に出頭していたことなどの事情を考慮すると、委任状の右訂正を以て委任の存在を疑わせるような特段の事情があつたとも言えない。
7 また、《証拠略》によれば、被告会社の後藤は、乙第七号証の四の事務処理要領による原告の戸籍謄本又は住民票を提出させていない事実が認められる。しかし、《証拠略》によれば、被告会社を始め生命保険業界では、契約者が死亡している場合や改姓等の場合には戸籍抄本や住民票を提出させているが、通常の解約の場合は右書類を提出させていない事実が認められる。そして、右書類の性質からしても右のような取扱いは妥当なものと認められるので、後藤が戸籍抄本等を提出させなかつたことをもつて、被告の過失ということもできない。
8 原告は、被告会社の後藤は林田についてその身分確認を怠つた過失がある旨主張するので検討するに、《証拠略》によれば、被告会社の熊本支社は、カウンターを隔てて事務室部分と待合室部分に分かれているが、右待合室部分はさして広くはなく、カウンターと待合室内の待合席用の椅子との距離はせいぜい二ないし三メートル位しかないこと、従つて、カウンター越しの職員と来客の応答は待合室に居る者には十分に聞こえる状態であつたこと、四郎は高齢ではあるが特別に耳が遠いという状態ではなかつたこと、当日四郎や林田らは約一時間半位も右待合室に居たが、来客は極めて少なく殆ど両名位であつたこと、林田が当初解約を申し込んだときも、後藤はカウンター越しにその前の椅子に座つていた四郎と林田に対して解約防止の説得を行つたこと、しかし、結局解約ということになり四郎が解約請求書を書き始めたが、手が震えて書けなかつたので、林田において代筆しようとしたこと、そのため後藤は林田にその氏名を尋ねたところ、同人は「息子です。」と答え、来社票の氏名欄に「元田安泰」と、契約者との続柄欄に「長男」とそれぞれ記載したこと、そのため後藤は解約請求書の備考欄に「高齢で目と手が不自由な為、同行付添の長男元田安泰(ヤスヒロ)様記入」と記載すると共に、林田に対して身分確認のため運転免許証の呈示を求めたこと、林田は当日既にその自動車を被告会社熊本支社の地下駐車場に駐車させていたが、「免許証は遠くの駐車場の車の中に置いてきた。」旨答えたので、後藤もそれ以上の確認をしないまま、林田において解約請求書を書き終えたこと、林田は詐欺の常習犯ともいえる者であつて、当日まで一〇数回にわたつて原告や四郎らを欺罔して二〇〇〇万円近い金員を騙取していたが、原告や四郎は林田を信用したまま右事実を知らなかつたこと、林田はかねがね四郎に対しては「お父さん」と呼ぶなどしていた関係もあつて、約一時間半にも及ぶ被告会社の待合室においても、四郎は林田の行動に異議をはさむような態度は見せなかつたこと、解約手続終了後現金交付の際も、林田は一七五万円余の現金を受領し、少なくともうち七五万円については枚数を数えてこれを確認したこと、そして林田は支払計算書の受領欄に元田四郎の署名、押印したこと、その後両名は連れだつて被告会社を辞去したことなどの事実が認められ(る。)《証拠判断略》。
右認定の事実によれば、後藤が林田を四郎の長男であつて、四郎が高齢のため付添ないし補助者として出頭し、解約手続を代行したものと誤認したとしても、まことに無理からぬものがあつたものというべく、また、林田と四郎の約一時間半にも及ぶ前記のような態度よりすれば、林田の身分をさらに厳しく確認しなかつたことを以て被告側の過失とすることは、余りにも被告に難きを強いるものというべく相当でない。
いわんや、林田が解約返戻金の騙取をしようとしていたことを被告会社の職員が見抜くことは不可能であつたものと思われる。
9 以上のとおりであるから、被告会社の職員が、四郎が原告を代理する権限を有しないことを知らなかつたことに過失はなかつたものというほかはない。
そうとすれば、被告の本件解約金の支払は、民法四七八条の適用により原告に対して効力を有するものというべきであるから、被告の右抗弁は理由がある。
四 結論
以上の次第であるから、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 藤高正昭)